せんすいかん

最近お話を書いている。「お話」と形容するのはなんだか、「脚本」だとか「小説」だとか、そういうカテゴリに収めるには少しみっともない文章なんじゃないかという遠慮からきている。少し幼稚な言葉だけど、自分にとってはそれが等身大でちょうどいいと感じている。お話を書くとき、それだけしかできなくなる。何かを並行させて行うのが億劫になるし、食べることも寝ることも聴くことも見ることも拒絶したくなる。少しだけ、削って、しぼって、滓を救い上げるような作業。大げさに言ってしまうと自傷行為に近い。深く深くもぐって、息苦しくても辛くても、思いつくまで底にいる。首を絞めたくなる。それでも思いつかなくて、憂鬱になる。でも癖になってるから、結局また考えてしまう。そして思いつくと、一気に書き上げる。自分の頭に槍が刺さったみたいな。私にとってはそういう行為。

今も、この文章は息抜きに書いている。今書いているものは伝えていいものなのか、誰かに一つの意見として受け入れてもらえるのだろうか。私のせいで誰かが傷つくかもしれない。表現はコミュニケーションの一つだ。絵とか音楽とか小説とか映画とか、作品を作った人と対話できる手段だ。または他者と他者を繋げるためにの手段。私たちは作品に触れることで、誰かとおしゃべりしている。私が今書いているものは、誰かを傷つけるかもしれない。自分の価値観を語ることはとても恐ろしいことなんじゃないか。エゴなんじゃないか。誰かを殺してしまうんじゃないか。誰かに殺されてしまうんじゃないか。全部ひっくるめて怖い。言葉に責任を持たなければいけないのと同じで、表現するのにも責任が問われてしまう時代。私は自分に酔いしれて、周りを見ることができていない。戒めながら書いている。それでも、作品は誰かに観てもらわなければ完成しない。絵も音楽も小説も映画も、結局は独り言でもある。一方的だ。人間と人間の会話と同じ。

息抜きとか言ったけど、こういう文章を書いている時も、結局は深く潜っているんじゃないだろうか。自分を見つめるために、今も何かを書いている。