ショートケーキ

アンティークなカフェに来ている。他のお客さんはおそらくお金には困っていないおばさまばかりだ。静か、ではない。むしろ声が大きい優雅なおしゃべりと、店内に流れるクラシックが不釣り合いなくらいだ。私のキーボートを打つ音もうるさいだろう。ショートケーキに乗っているいちごをどのタイミングで食べるかによって、性格がわかるだとか、別にそういう心理テストがなくともたまに話題にあがる、ような気がする。ちなみに私は最初か最後かで迷いながらケーキを一口食べて、それからいちごを口に運ぶ派だ。かなりめんどくさい。明日食べるにしても、タイミングは変わるだろう。気まぐれでいいのだ。付加価値、というものはこういった心理テストのようなタイミングにも現れるのだろうか。ケーキひとつ食べる仕草、食べ終わった皿の綺麗さ、フォークを置く位置。何をとっても、自分が審査されているような気分になる。私には合わない。ケーキは美味しそうでついつい入ってしまうのだが。店内に入って、客層、店員の立ち振る舞い、どれを比べても場違い感がまとわりつく。カフェオレの味の違いもわからない私が来て良い場所か、と考えながらまた一口飲む。私の価値が測られているような気がして、なんだか落ち着かない。もちろん、「何を書いてるんですか?」と気さくに話しかけてくるような人間は、どこに行ってもいないので当然ここにもいない。なぜ来てしまったのか。人間の付加価値は、おそらく自分でつけてしまうもので、価値は他人が決めるものなんじゃないかと、たまに考える。付加価値はおそらく服や化粧、髪型、持っている小物、お金、個別で考えてもいい。だけど価値は、それらを全てを統合した「人間」を見る。付加されたものは枝のように生えたその人の一部でしかなく、一部を含めた全部を見られているのだ。ショートケーキだって、「上に乗っているいちごはブランドものでしてね」とケーキが付加価値だと主張したって、その人にとってはブランドかどうかなんて関係なくて、そのいちごが口に合うかによってショートケーキ全体の価値が決まる。いや、ブランドだと聞いただけで惑わされるのもまた他人なのだろうか。だとすれば、価値の見方なんて変化しやすい。割とあてにならない。価値なんてそんなものだ。自身の価値を変えるのは難しいけれど。ちなみに今回のショートケーキは美味しかった。どこのいちごだか知らないけど。