追憶
3.11
私の人生の分岐点を作った日だった。
原発事故で私の人生は大きく変わった。
私は福島県出身だ。
私の住んでいた町ももちろん放射能汚染の被害にあった。
当時の私は中学生で、それがどれほど大きい出来事かいまいち理解できなかった。
けれど、外に出るのにも時間制限がついたり、
生活の中でどれだけ放射能を浴びているかを調べるための奇妙な測定バッジを首からぶら下げたり、
たまに体育館が野外運動部に占領されたり、
日常の中の確かな変化によってじわじわと理解していった。
そんな生活の中、私の高校受験の話が少しずつ話に上がるようになった。
当時、福島の高校は除染が進んでいなかった。
母は、私にこう提案した。
「神奈川に住んでいるおばあちゃん家から、神奈川の高校に通うっていう方法もあるけど、どうする?」
つまり、自主避難を提案されたのだ。
父と母は福島に残る。離れ離れになる。
しかし母の心境を知らずに私は、
「お姉ちゃんとも一緒に暮らせるんだよね?しかも都会じゃん!いいなぁ、私、それがいい!」
今思うと単純すぎる私だ。
けれど、その選択がどれだけ大きな分岐点だったか、神奈川の高校に受かってから重くのしかかってきた。
そのあとの生活は少し苦しかった。
田舎と都会のギャップや知り合いが全くいない状態からの高校生活。
ほんの少しの差別。差別といっても、
腫れ物にされるといった感じの、
そういった雰囲気だけがそこにあるようなものだ。
いじめこそはなかったけれど、
それでもどこか距離を感じたり、
あるいは自分からとってしまったり、
ここに来たのが本当に正解だったのかわからなくなっていた。
高校二年生の春、少し生活に馴染めてきた頃、放送部に所属していた私は夏の大会に向けたドラマ制作をしていた。
その時期にはもう撮影の段階に入っていなければならなかったのに、脚本すら出来ていない悲惨な状態だった。
そんな中、ひょんなことから私の提案が採用され、私が脚本を書くことになった。
書いたこともなく、役者志望だった私はしぶしぶ書き上げたが、悲劇はまた起こった。
「脚本書いたなら、じゃあ監督もやって」
先輩がこう言い出したのだ。
撮影が始まったが、カメラワークだの演出どうこう聞かれ、説明が下手でできない私にとっては地獄の日々だった。
もはや完成させることだけが目標だった。
そして大会の日、不安だらけで会場で自分の作品を見た。
福島からわざわざ私の作品を見に来てくれた母は、
「これは優勝するんじゃない?」
と言ってくれたが、自信がなかった私は、
「いやぁさすがにそれは親バカでしょ」
と返した。
しかし、驚いたことに、
みんなで作り上げたドラマはなんと、優勝した。
驚きと嬉しさで涙がでて、先に福島に帰った母にLINEで報告した。
「ね?親バカじゃなかったでしょ?」
と返信が返ってきた時、私は初めて「あの時の選択は間違いじゃなかった」と確信できた。
その出来事をきっかけに、今も放送関連のことを学べる場所で学生生活を送っている。
3.11、確かに私の人生を変えた。
たくさんの犠牲者を出して、大きな爪痕を残した東日本大震災。
そして原発事故。放射能によって余儀なく避難した人もいる。そんな中、選択できる余地があっただけ恵まれていたのかもしれない。
それでも、父と母をはじめ、色々な人を悲しませてしまう選択をした。
高校生活の初めはその罪悪感もあった。
けれど今は、どんなに悲しいことがあっても、どんなに苦しくても、自分の選んだ道に対して決して後悔しない。
過去の私が選んだ道の上に、確かに私が存在しているのだから